【表参道】青山茶館

青山学院大学と渋谷駅の中間くらいの地点にある喫茶店です。

渋谷駅から向かう場合、宮益坂を登ってすぐのところです。

表参道の交差点から赤坂にかけての青山通り


かつては多くの喫茶店がひしめき合う一帯でしたが
ここ20年のあいだでチェーン店の台頭に反比例して少しずつ減ってきてしまいました。



街は生き物によく似ており時々刻々と日々姿を変えていきます。
それが成長なのか老化なのかは各個置かれた状況により異なりますが

街の姿というものは現在そこにあるものが全てではなく
言うまでもなく過去の積み重ねの上に現在の姿があります。
現在の姿しか目にすることのできない我々は
ややもするとあたかも現在の景色がずっと前からあったかのように思ってしまいます。
しかしそれは錯覚です。


そんなときには過去の姿を知る人の話を聞いたり、
過去の姿を残す写真や映像をあたったりすることで
今はもう追跡不可能な「かつての現在」を探り当てることができます。
多様な記録媒体があり、個人の記憶をとどめられる年限(平均余命)が
かつてより長くなった現代を生きる我々の特権です。

と、なんとなく格式ばった書き方をしてしまいましたが
簡単かつ明快に過去の姿を探してみましょう。
今回のお題は「青山通り」です。


通りに軒を連ねるさまざまな店舗が入れ替わっていくのは仕方ないことなので
お店の興亡については少しわきに置いておきます。



今回は道路そのものに目を向けてみましょう。


現在の青山通りの道路が完成したのは昭和38年(1963年)のことでした。


時の東京都知事・東 龍太郎の大号令のもと
東京は大改造を行いました。
(実際には副知事・鈴木俊一の功績が大きいようです。
多摩の大規模開発や東京湾の埋立てを率先して行い
現在の東京都の骨組みを造ったのもこの人です)


翌年に迫ったオリンピックに際して来日する各国に対し
「東京はオリンピックを実施するに足る近代的国家である」
と思わせるために近代的都市の建築が急務とされていたのです。


そして青山通りの道幅は当初の22mから40mになりました。

※「青山通り」という名称になったのもこの時です。
それまでは「青山の大通り」と呼ばれたり江戸時代以来の
呼び名である「厚木街道」と呼ばれたりしていました。


そしてオリンピックを迎えた後、地下鉄や鉄道の発達に伴って
路面電車が廃止されて現在の青山通りの姿になりました。


いったん道路ができた後での拡幅は、道路を新設する時の何倍も時間と労苦を要します。

青山通りについてもそれは同じでした。
1963年の時点ではすでに大通りとしての体裁が整い大小さまざまな店舗があり、
各店舗や住民の協力なしには拡幅は成し遂げられなかったと思います。

お国の御旗のもとの事業ですので逆らうことなどできない流れもあったのかと思いますが

今の青山通りが多くの人々の協力の賜物であることを忘れずにいたいと思います。









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