【八王子】サクラヤ


八王子を象徴するのは豊かな自然だ。

八王子の発展は八王子城が築かれたところから始まります。
城を造ったのは北条氏照多摩御陵があるあたりより西の、
城山病院よりももっと西の地に八王子城は造られました。

現在の八王子駅前は城下町として栄えてきました。
奈良の氷室城や三重の津城のような平地に築かれた平城とは異なり
八王子城は山城であったため城下町が城から離れた場所に成立しました。



※JR八王子駅よりも北西に少し行った所には
「本郷町」「八日町」などの町名があり城下町であった頃のなごりを
名前に残しています。

・本郷街:郷士や町民が住んでいたエリア
・八日町:毎月8の付く日(8日、18日、28日)に市場が立っていました

八王子はJR中央線京王線が住民のアシになっていますが、
かつてはもう一つ鉄道が通っていました。

その名を「御陵線(ごりょうせん)」といいます。






正式名称を「京王電気軌道御陵線」といい
昭和6〜20年までのきわめて短い間、北野駅から多摩御陵前駅の間で運行されていました。


敷設の背景としては大正天皇崩御した際に
多摩御陵という陵墓が造られ多くの参拝者を呼びましたが
省線(現在のJR)だけでは参拝者をさばききれなくなったため
大臣告諭により京王電鉄により「御稜線」が敷設されることになりました。


ルートは現在の山田駅の少し西あたりから北に向って延び
そのまま国鉄をまたいで多摩御陵前駅(現在の陵南公園あたり)までというものでした。
めじろ台駅より先はまだ京王線がなかったため、多摩御陵前駅が西端でした)

線路はすっかり撤去されてしまいましたが山田小学校のあたりから北西に延びる
周囲の道路と比べて異様に広い都道や長房アパートのあたりに当時の面影を見ることができます。
並木町の交差点の地点には「武蔵横山」という駅がありました。



終着駅の多摩御陵前駅は3本のプラットホームを擁し
駅の車止めには池や噴水もある神社の神殿のような豪華な駅舎だったそうです。


御陵線は1945年1月、戦局の悪化に伴い休止となります。
それから約半年後、軍需工場や鉄道の起点となっていた八王子は大きな空襲に見舞われます。




【八王子空襲】
1945年8月1日 20時55分 空襲警報が発令。
市民は焦慮に駆られるがB-29は姿を見せず。
2時間後の22時頃、川崎が爆撃されているとの知らせが入る。

日付が変わり8月2日 午前0時頃、伊豆半島から丹沢山、強羅防衛線を越えて米軍機が飛来。
立て続けにB-29爆撃機169機が来襲。
0時45分 目標である八王子市街を照らすため、
先行する爆撃機がM47型 18ポンド焼夷弾を投下開始。
3分後の0時48分 次いで主力部隊がM17集束焼夷弾を投下。



八王子は2時間にわたる爆撃を受け市街域の3.6 km²のうち2.9 km²が焼失。
2時間で1600トンの焼夷弾が投下されたが
これは日本国本土空襲では3番目の投下量である。


八王子では死者・負傷者あわせて5000人近い被害を受け、
市街地の実に8割以上である15000戸が罹災した。


戦後八王子は広い土地を活かして団地や企業の施設などが多く建てられました。

またベビーブームとそれに次ぐ大学ブームにより
キャンパスが手狭になった都心部の大学は
八王子・多摩地域にキャンパスを移転させました。

現在の八王子は繁華街としての役割と学園都市としての機能を果たす
大きな衛星都市として活躍しています。












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