【福井】寛山

地下に向かう階段を降りると神殿であった。
眼の底で景色がぱっとひらけた。




福井は路面電車の町です。
現在でも背の低い建物が多く残っているため
城下町であったころの街並みがぼんやりと想像できます。

街中を歩いていると、たまに轟音が鳴り響くのにでくわします。
ふと見てみるとそれが福武線路面電車です。
路面電車は今でも街の人々の足と重要な役割をになっています。





福井の街では歴史のあるものがうまく現代の風景に溶け込んでいます。
街の中心には福井県庁と県警察本部がありますが、
昔ここには福井城というお城がありました。


「〜福井城こばなし〜」
江戸時代、全国を統一した徳川家康はここ福井を北陸の要として重要視していました。
しかし自らは江戸にいるため手が回りません。
そこで家康が遣わしたのが結城秀康という大名でした。

下総結城(茨城県西部)の大名だったこの結城秀康、実は徳川家康の子どもです。

福井県庁の裏側には今でも結城時代の石垣が現存しています。


福井城跡からこちらの王朝喫茶・寛山さんを挟んだ町の南側には
柴田神社という神社があります。


「〜北の庄城こばなし〜」

徳川幕府よりも前にこの地に
「北の庄城」という城を築いたのは戦国武将・柴田勝家でした。



結城氏は福井に根を下ろすと柴田時代の「北の庄城」を取り壊し、
その上新たに城を築きました。
(過去の文明の上の層に新しい文明の構造物を築くというやり方はなんだかヨーロッパ的ですね)
これが結城時代の「北の庄城」です。


20年ほど前におこなわれた発掘調査では本丸があったと推定される柴田神社の地下から石垣の跡と思われる石が出てきました。


しかし、「北の庄城」があった正確な位置は今もって特定されていません。


帰り際、別れを惜しんでくれる神々。



北陸の要として近世より重視されてきた福井は
日本海側の都市の中でも空襲を多く受けてきました。
軍需工場の存在や港湾拠点により町が栄えていたことで
米国の格好の標的となってしまったのです。

特に甚大な被害を受けた1945年7月19日の福井空襲では
B-29による集中爆撃が60分以上も続きました。


それにさきがけて7月12日には同じ福井県敦賀でも空襲がありました。
敦賀空襲は幸いにして福井空襲ほどの規模ではありませんでしたが
ここでは「パンプキン爆弾」(非原子爆弾)と呼ばれる爆弾が使用されました。
約1ヵ月後の1945年8月9日に長崎に投下された「ファットマン」(原子爆弾)の試作型です。
パンプキンではなくファットマンが使用されていたら
敦賀の被害は格段に大きなものとなっていたと言われています。



21世紀、福井は新たな課題に直面しています。

現在、福井県原子力発電所をもっとも多く抱える県で
関西で使われている電気の約5割を福井県の13基もの原発でまかなっています。


梅田駅前ビルの喫茶店で飲んだミックスジュースをかき回すミキサーの電力の半分は
ここ福井で造られていることになります。



かつて原子爆弾による被害を幸運にも免れた福井県
どこよりも多く原子力発電所を抱えているのは何の因果でしょうか。


豊かな自然をかかえ、長寿の県である福井。
栄えある未来を願います。