【山形】白十字

桜の都・山形の七日町にある白十字さんです。

ちょうど山形銀行本店の向かいにあり、市内で最も賑やかな一帯です。


ちょっと不思議な七日町という地名の由来ですが、

元々はかつての山形城主・最上義光により名づけられたものです。

江戸幕府ができてすぐの頃、最上義光

戦乱で傷ついた山形の再興に力をいれました。


まず自分の居城である山形城(現在の霞城公園)を中心にして

「二の丸」および「三の丸」に家臣を置きました。

次に経済政策として、当時から交通の起点であった旅籠町を中心に産業経済の活性化を図りました。


「人でにぎわう街をつくるにはどうしたらいいだろう・・・

そうだ、お店をいっぱい集めればいいんだ!」


義光はお触れを出して市場を開くようにすすめました。

といっても毎日同じ区域ばかりに人が集まってしまったのでは

山形全体の発展にはなりません。

市場の利用者がうまくばらけるよう八つの商人町を築き、

それぞれに「二日町」から「十日町」(九日町を除く)までの名前を付けました。


例えば「四日町」という町では

毎月4日と14日そして24日に市場が開かれていました。


この時に「一日町」が造られなかった理由としては

月の始まりである朔日(さく。ついたち)は

太陽と月の均衡が崩れる縁起の良くない期間であるため

家でおとなしくしてましょう、

という習俗があったことが影響していたと言われています。


※ちなみに「ついたち(朔・一日)」という言葉の由来は

「月立ち」がなまったものであると考えられています


ところでその最上義光が住んでいたという山形城ですが、

残念ながら今はありません。

明治改元後に城主を失くして廃城となってしまいました。


しばらくは華族や官僚の保養地として使われていたようですが

戦時に帝国陸軍の「歩兵第参拾弐(32)連隊」の兵営地となったときに

城郭が取り壊され、お堀は埋め立てられてしまいました。

軍事演習をするにあたり広大な土地を有する各地のお城が

格好の駐屯地とされたのです。

※似たような現象としては各地の城で起こりました。

例えば千葉の佐倉城も現存していませんが

これは第2、第57連隊の駐屯地となった時に軍用演習のために

取り壊されてしまったことによります。


戦後、山形城跡地は霞城公園として整備された後、

国指定史跡・日本100名城に指定されました。

山形市は今では「桜の都」として観光客を集めていますが

桜の名所である霞城公園に1500本にもおよぶ桜が桜が植えられたのは1906年のこと。

日露戦争の戦勝記念として

凱歌、鳴り響く中で「歩兵第参拾弐連隊」の帰還将兵により

植樹されたものです。














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