【名護】たんぽぽ


72年・核抜き・本土並み―――――――。



沖縄県の本土復帰から40年。

終戦により日本国の統治から外れた沖縄県

米軍治世下では軍備は年々増強され基地の面積はますます増えていきました。
度重なる軍拡はベトナム戦争の頃ピークに達しました。

朝鮮戦争が終わったころから住民たちは復帰問題に強い関心を持ち始めており
1968年11月に行われた琉球政府の行政主席(他県でいう県知事)選挙では90パーセント近い投票率となった。

この時の選挙で屋良朝苗氏が当選し初代行政主席となった。
(屋良氏は沖縄返還後には県知事を務めた)

1972年5月、沖縄県が発足し約95万人が日本国民としての権利を回復した。


返還合意に県民は、心から「バンザイ」と叫べず、スッキリしないものがあった。屋良朝苗主席は「一つの峠を乗り越えたと思うが、注文を付けねばならない」と心境を語った。

沖縄返還への日本側の当初の姿勢は下記の3点であった。
・「72年」(1972年に返還)
・「核抜き」(沖縄に核兵器を持ち込まない)
・「本土並み安保適用」(本土並みの施政権を持たせる)

しかしながら着地は「72年・実質核抜き・本土並み」というものであった。

「(平時には)核抜き」であり「有事には核付き」という形が有効となる可能性があった。
「完全核抜き」を求める屋良県知事と県民の要求と完全に一致した形にはならなかった。







現在も沖縄本島のうち約35%は米軍基地である。
米軍基地は湾岸部だけでなく内陸部にもあるため
縦に長い沖縄本島の交通網は米軍基地を避ける形で蛇行している。


乗合いバスで後ろの座席に座っていた中学生が話していた。

「それにしても基地が邪魔だよなあ」
「これがなきゃ真っすぐなのにな!」
「でもなくすわけにはいかないからなあ…」



基地問題は難しく、根深い。






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